- JLogos検索辞書>
- 下町(近世~近代)とは
「下町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
下町(近世~近代) 江戸期~昭和33年の町名明治初年から明治22年まで豊橋を冠称江戸期は下リ町と区別するため下モ町と表記町名は,下伝馬を勤めたことによる(三州吉田記)江戸期は吉田城下二十四町の1つで,表町のうち吉田城の南東に位置し,町並みは東西に続き,西は鍛冶町に接する吉田宿伝馬役は平役町として人足役を課され,貞享元年には本門27軒のうち役門24軒で出人足17人を負担した同5年の町並み83間,道幅3間3尺余,家数21正徳2年の吉田惣町差出帳によれば,家数21・人数155,庄屋は次太夫寛延3年の吉田弐拾四町指出帳では家数24・人数127同年の吉田弐拾四町指出帳書抜では出火時出役人足8,桶屋1,庄屋は次左衛門,出水時に吉田大橋へ人足を出役造酒屋が1軒あったが,正徳4年廃業(豊橋市史)文政2年の家数22,天保9年の家数23安永8年の宗淳火事で類焼明治10年の地価取調帳では面積2,815坪余・地価1,560円余同22年豊橋町,同39年からは豊橋市に所属明治38年◯竹(竹に丸)製糸場創業昭和33年八町通1~5丁目・鍛冶町となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下町(近世~近代) 江戸期~昭和48年の町名近世には秋田藩の所預【ところあずかり】佐竹南家領雄勝【おがち】郡湯沢町のうちで南館【みなみだて】を冠称北は八幡神社,南は南館荒町へ通じる南北の道路沿いに屋敷が並ぶ佐竹本家の給人町他に東の清涼寺と西の湯沢大堰を渡り御蝋絞所から田町に通じる小路2本がある(湯沢町絵図)廃藩置県後も住宅地として存続昭和29年以降湯沢市の町名に継承,同49年内町の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」